ロシアファッションブログです。日本においてはもちろん、世界中で出版物、特に雑誌の販売部数が減少しています。ロシアの女性雑誌においてもしかりで、ここ数年のうちに半数以上が印刷物としては生き残れないだろうとの予測があります。というのも、現在ロシアで手に入る女性雑誌はネットで購入できるためで、発行部数が必ずしも女性誌の不人気を示すものではありません。ただし、ファッションに関する情報の入手方法の変容として、SNSなど一般人からのものが手に入りやすくなったということは、専門誌の役割が変容していかないと、そのニーズの重要性が縮小していくという傾向は否めません。
今回は、出版界の岐路に立たされている現在まで、ロシアの女性誌がいかに変遷してきたかを探っていきたいと思います。
ロシアにおいては、20世紀の初めに最初の女性向けの雑誌というものが現れました。主なものは文学系の雑誌とファッション系の雑誌でした。またその時、社会政治と学生向けの2つの新しいタイプの女性向けの出版物も登場しました。雑誌は、出版社のイデオロギー的立場を反映し続けました。女性誌が女性によって出版され、編集されるという慣習は20世紀の標準ともなったスタイルです。
20世紀の初め、女性誌の中に、広告が広まり始めました。女性誌の中の広告は一般紙に比べ控えめで、美的感覚を前面に押し出すものでした。主に女性向の雑誌に登場する広告は、食品、衣類、パーソナルケア製品、家庭用品、子供向けの商品などの消費財広告でした。
多くの女性向け出版物、特に主婦のための雑誌は、次々と次号の購入を促す戦略として、数々の連続小説を掲載し始めました。ほとんどの場合、それぞれが1年間のシリーズものでした。テーマは、自立した女性についてが多くを占めていました。N.スペランスカヤ「とげのある道」、N.ニガルスカヤ「月の光の向こう」、S.マリノフスカヤ「エラー」、S.レスケス「新しい道」、A.M.グロモフ「女性の夢」、A.パズキン「2つの幸福」などが女性誌に連載された主な作品です。作品は女性の新しい社会的役割を理解、あるいは啓蒙するのに役立ったと考えられています。
ところで、ドストエフスキーの「罪と罰」は小説雑誌「ロシア報知」に19世紀後半の1886年から連載された小説ですし、トルストイの「戦争と平和」も同時代の連載小説です。このように、ロシアでは連載小説を雑誌で読む文化が根付いていたことがわかります。
文学的香りの高い女性誌
20世紀初頭においてロシアで最も影響力のあった女性誌は、社会的、政治的な意図のある記事を含む、女性の生活のさまざまな領域をカバーする文学雑誌でした。このタイプの出版物の構成は、ソビエト時代から現在に至るまで、その後の女性誌全体のモデルとなっています。大切なことは20世紀に登場した文学系の女性向け雑誌は、「教育や所得水準の低い読者層を対象としてた。」ということでした。読者ターゲットは、母親、妻、恋人を持つか持つことを夢見る女性でした。読者の精神的および実用的なニーズに応じて、雑誌の内容は家庭内および結婚の問題を扱い、ファッション、化粧品、パーソナルケア、子供の健康や教育に関するヒントと実践的なアドバイス、裁縫のレッスンについての記事が主なものでした。ただし先述のようにロシアの雑誌の特徴である、文学のセクションが含まれていました。出版物は、主に週刊、あるいは隔週刊の形式で、月次の形式はありませんでした。社会主義というロシアの社会政治情勢の影響下にありながら面白いデザインと多くのイラストを備えていました。
それでは何誌かの当時の代表的な女性誌を引用してみましょう。
«Женщина»「女性」
雑誌「女性」は、1907年から1917年(第2次ロシア革命)までサンクトペテルブルクで発行されました。最初は週刊誌で、後に隔週刊になりました。ロシア革命直前の創刊という時代背景を表し、出版当初の紹介記事は、「社会の精神的な危機を克服し、家族の基盤を強化する女性を支援する」というメッセージでした。編集者は最初に12の最も重要なトピックを選択し、それに応じて、2〜8ページのボリュームを持つ6つのミニマガジンに分割するという構成でした。新聞販売店、街角のキオスク等いたるところで販売され、年間購読のシステムもあったということです。年間の購読料は6ルーブル、現在の価値に換算すると、6000ルーブル(1万円)くらいでしょう。1冊800円くらいですから、ごくリーズナブルな価格建てですね。
«Дамский мир»「レディスワールド」
上記の雑誌「女性」と同様、1907年にサンクトペテルブルグで創刊され、1917年まで発行されていました。「ファッション、文学、社会における女性の生活に関する月刊誌」という副題を掲げています。その主なテーマは「女性の美」でした。この女性誌は、詩、フィクション、批評、社交界、教育、演劇、音楽、女性運動に関する情報を扱いました。さらにこの雑誌には、料理、裁縫、ファッション、メールボックスのセクションが含まれていました。「レディースワールド」は英語の情報を重視していたため、女性向けの英語の出版物から多くのトピックが借用されたそうです。さらにこの雑誌は、イラストやパターンを用いてファッションに関する記事も多く載せました。これらの情報は、雑誌名のとおり、パリ、ニューヨーク、ロンドン、ウィーンの特派員やアーティストによって提供される国際的なものでした。
«Женское дело»「女性のビジネス」
この雑誌はモスクワでの創刊です。1910年から1918年まで発行されていました。フィクション、ジャーナリズム、女性問題、
海外からのニュース、演劇と音楽、ファッションと裁縫のセクションがあり、また経済セクションもありました。ジャーナリストのセクションは、教育のトピックに関する記事を公開しました。ここからロシア社会に特に社会的に影響を与えたいくつもの記事が発表されています。例えば、R.ラウナウによる「母親」、M.ノビコバによる「子どもの読書」 S.ザレチノイによる「新マルタシア主義と女性の問題」、V.カシュカロフによる「緊急の質問」などです。
«Журнал для хозяек»「主婦のための雑誌」
これまでの3つの雑誌が1917年の第2次ロシア革命と同時に廃刊してしまったのと異なり、この雑誌は革命前の1912年に創刊され、革命後のから1926年まで続いた雑誌です。当時最も人気のある出版物とされていました。隔週刊で、150,000部以上の部数が発行されました。雑誌は通常28ページのA3フォーマットで構成され、クリスマスとイースターの号ではページ数が増加しました。記事には白黒のイラストと写真が添えられていました。メインの出版物に加えて、プレミアム号なども発行され、その中には:等身大の型紙、付録雑誌「私たちの子供たち」、料理のコレクションノート、花飾りつけシート、年次ノートブックなど、豪華な付録なものを付けていたそうです。現在の雑誌のあり方を彷彿とさせますね。対象読者は、家事や育児に積極的に取り組みかつ余暇を過ごす可能性を夢見る女性、世俗的なニュース、健康的なライフスタイル、ファッション、化粧品、衛生に関心のある女性たちでした。
「主婦のための雑誌」の最初の号は、1912年2月15日にリリースされ、雑誌のコンセプトが明確にされました:「私たちは女性の高等教育、女性の自立的職業、女性の社会的活動の重要性と必要性を完全に認識しています。一方母親、妻、主婦としての女性の活動はそれほど重要ではなく、社会にとっての活動が非常に重要であると主張します」。なるほど、社会主義のメッセージと完全一致ですね。生き延びた理由がはっきりしました。
この出版物は、現代文学、芸術作品、および話題の問題に関するジャーナリストの記事のレビューを発表しました。こうして、国のイデオロギーを植え付けていたという側面もあるでしょう。一方、「女性の生活のクロニクル」と「おもちゃの侯爵夫人の会話」という個々の生活における実用的なヒントをもうけるなど、硬い内容ばかりではなさそうです。この雑誌には、家庭、衛生学、医学、室内花栽培、料理、ファッション、裁縫、化粧品、子育てと教育、さらには美術、文学、演劇の記録が含まれていたそうです。こうして、国の意図に沿いながらも、雑誌としての娯楽の機能が満載だったということが伺えます。とっても優秀な編集長がいたんですね。
「主婦のための雑誌」革命前の号
革命前後で明らかにファッションが異なります。
いかがでしたでしょうか?100年以上の前の女性誌、しかもロシア革命前後と言いながら、女性誌のフォーマットは現代の日本の者とあまり変わらないんですね。また革命後の、女性の社会進出の進めにおいて、主婦の仕事を軽んじるような啓蒙内容を見て、ブログ筆者は逆説的に「ロシア人女性がいかに家庭的か」を確認できました。
次回も「ロシアの女性誌」の特集は続きます。
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